福祥丸の紹介~「京都」編~
実は、私はもともと料理人になることを夢にしていました。
中学校を卒業後はその夢をかなえるべく、和食やイタリアンのお店で修行に励んでいました。
そして忘れもしません、17歳の冬。
偶然訪れた老舗BARのカウンターの中で煌びやかにカクテルを作るバーテンダーを見て、「かっこいい!自分もこんなお店で働きたい!」そう思った翌月には更なる分野を学ぶべく、京都先斗町の老舗BAR「SENTJAMESCLUB」でバーテンダーとして働き始めました。
時に接客サービスに磨きをかけるべく、接客メインのお店でサービスに従事することもありました。
そして同じころ、もう一つ運命の出会いを果たしたのです。
といっても、理想通りの女性とか昔好きだった同級生とか、そういった類いのものではありません(笑
それは「サーフィン」との出会いです。
この出会いが後々、私の人生に大きな影響を与えることになるとは、この頃は夢にも思いませんでした。
oahu-alamoanaでカラニ・ロブと
BALI-legianでリザール・タンジュンと
すっかりサーフィンにはまってしまった私は、バーテンダーの仕事の合間に、それでもどうにか時間を作り日本各地はおろか、ハワイやバリ島など世界にまで飛び出していくようになりました。
「海と波のないところには絶対に遊びに行きたくない!」
これが当時の私の口癖です。完全に中毒ですね。
ボロくてもいいから、海沿いのアパートに住んで、歩いて波に乗りにいく生活…。
そんな生活ができればどんなに素晴らしいことだろうか。段々そんな空想に浸る時間も多くなってきていました。
1996年、私はその気持ちをどうしても抑えることができなくなってしまいました。
そしてオーストラリアの地に渡ることを決めたのです。「サーフィンとちょっとだけの語学」留学という事で。
Sydney English Language Centre
オーストラリアではジャパニーズレストランで働きながら、夢にまで見た海沿いのアパートを数人でシェアし、サーフィン漬けの毎日です。
みんな、お金がない中での生活でしたので、いつもお腹を空かしていた事をとても覚えています。
この飽食の日本で生活している時にはまったく知らない感覚でした。
そんな時には海で釣った魚を食べたり、岸壁で見つけた巨大なサザエ(の様な貝)を食べたりして、空腹を紛らわせていました。
正直、おいしいとはかけ離れた味でしたが、そんなことは言っておれません。
俗に言う、「背に腹は変えられぬ」というやつですね。
そして肝心の語学はと言うと・・・気持ちが通じ合えば言葉はいらない。
それでいいじゃないか、自分なりにそう言う結論に達したという事にしておきましょう・・(苦笑
そんな充実(!?)した生活もあっという間に一年が過ぎ、日本への帰国の日を迎えた訳です。
そして日本で私を待っていたのは…
現実の日常、社会、文化…。
「あ、浦島太郎ってこんな気持ちやったんや」と心から浦島君に共感することができました。
あの無気力な感じは言葉では言い表すことが今でも出来ませんね。
就職活動を行うも、不景気に突入していた現代日本ではなかなか厳しいものでした。
アルバイトをして何とか生活を維持する…。
こんな生活で、こんな人生で本当に良いのか…?
自問自答の毎日が続きました。
そんな時、遊びで海に潜りに行った帰りにふと思いました。
「漁師になれば良いんじゃないか?」
「そうしたら、波のない日は素潜りをし、時化た日にはサーフィンが出来る…。」
不純な考えですね。
でも当時の私は真剣です。
翌日から情報収集と就「漁」活動の毎日です。
「素潜り漁師になりたいんですけど受け入れてもらえませんか?」
その当時は今ほどIターン制度や新規就漁の情報などはほとんど無く、とにかく片っぱしから全国の漁協に電話をかけました。
素潜り漁が盛んな地域まで直接、足を運んだこともありました。
これは実際に足を運んで判った事なのですが、意外と新規の素潜り漁師を受け入れてる所って少ないんです。
「定置網の船に乗らないか?給料は固定で払うから・・」そういう誘いもありましたが丁重にお断りしました。
あくまで素潜りにこだわっていたのでそれは私の本意でありません。
そして就漁活動に勤しむこと数カ月、ようやく鳥取県大山町の中山漁協で素潜り漁師の担い手を募集しているとの情報を得たのです。
そして2001年、鳥取県で私の漁師(見習い)生活が幕を開けることとなりました。
1章 :「京都」編
2章 :「見習い漁師」編
4章 :「今、そして未来へ」編